LOGIN扉が開くより先に、美琴は掌の錠剤を寝間着の袖へ滑り込ませた。
白い粒が手首の内側を転がり、肘の近くで止まる。わずかな重みすらないはずなのに、肌へ焼けつくような感触が残った。
征士郎が寝室へ入ってきた。
廊下の明かりを背負った顔は、いつもと変わらず穏やかだった。片手には水の入った硝子杯を持っている。
「まだ起きていたのか」
「少し、眠れなくて」
美琴は化粧台の前に立ったまま答えた。
鏡の中で征士郎の視線が動く。
白い小皿。
美琴の手元。
乱れていない寝具。
確かめるような目だった。
「今日は色々あった。頭が休まらないのだろう」
征士郎は彼女の隣へ立ち、水を差し出した。
香水と雨の湿気が混じった匂いが近づく。美琴は無意識に一歩退きかけ、足裏へ力を込めて踏みとどまった。
「薬を飲めば眠れる」
「……はい」
小皿には、もう一錠残っている。
美琴はそれを指でつまんだ。征士郎が見ている。喉の動きまで確かめようとしているのだと、今夜初めて気づいた。
これまでも、ずっとそうだったのだろうか。
美琴は錠剤を唇の間へ入れた。
舌の下へ隠し、水を一口含む。
冷たい液体だけを喉へ落とし、ゆっくり嚥下した。
征士郎の目が、美琴の首筋へ向けられている。
「もう一錠は?」
美琴は小皿を見た。
「今夜は二錠なのですか」
「医師から、眠れない時には増やしても構わないと言われている」
「でも、私は一錠でも朝まで眠ってしまいます」
「今夜は特別だ。余計なことを考えずに休んだ方がいい」
余計なこと。
華帆の腕にあった時計も。
扉越しに聞いた会話も。
自分の身体を勝手に調べられたことも。
すべて、征士郎にとっては眠って忘れさせるべきものなのだろうか。
「少し気分が悪くて」
美琴は腹部へ手を当てた。
「二錠飲んで吐いてしまっては、かえって身体に悪いと思います。今夜は一錠にしておきます」
征士郎は何も言わなかった。
柔和な表情の奥で、何かが静かに動いている。
美琴は目を伏せた。舌の下の錠剤が唾液に溶け始め、苦みが広がっている。吐き出したい衝動を押し殺し、口元を動かさないようにした。
「そうか」
やがて征士郎は小皿を手に取った。
「無理に飲ませるつもりはない」
その言葉に、美琴の背筋が冷えた。
無理に飲ませるつもりはない。
まるで、他の方法ならあるとでも言うようだった。
征士郎は硝子杯を置き、背広を脱いだ。いつものようにネクタイを緩め、寝室の奥にある衣装部屋へ入っていく。
美琴は背を向けたまま、化粧台の引き出しを開けた。
中から薄い手巾を取り出し、口元へ当てる。咳き込むふりをして、舌の下で崩れかけた錠剤を布へ吐き出した。
苦い粉が唇の裏へ残る。
「風邪か」
衣装部屋から征士郎の声がした。
「いいえ。少し、喉に水が引っかかっただけです」
美琴は手巾を握り込んだ。
ほどなくして征士郎は寝台へ入り、明かりを消した。
暗闇の中、二人の間には人一人が横たわれるほどの距離があった。
美琴は目を閉じた。
呼吸をゆっくり整え、薬が効き始めたふりをする。肩の力を抜き、寝返りを打たず、規則正しい息をつく。
征士郎は眠っていなかった。
それが分かった。
暗闇の中から、彼の視線がこちらへ向けられている。顔を見なくても、皮膚の表面で感じた。
どれほど時間が経ったのか。
やがて寝具がわずかに擦れた。
征士郎が身を起こす。
美琴は瞼を閉じたまま動かなかった。
床へ足を下ろす音。
足音が美琴の側へ近づいてくる。
髪へ何かが触れた。
征士郎の指だった。
昔は、その手に触れられると安心した。
父が倒れ、会社が傾き、頼る相手を失った十八歳の美琴へ、征士郎は何度も同じように触れた。
大丈夫だ。
私が守る。
その言葉を信じたから、美琴は冬真へ何も告げず、征士郎の妻になった。
指先が頬へ下り、顎の近くで止まった。
美琴の呼吸が乱れそうになる。
征士郎は何かを確かめるように、しばらく顔を覗き込んでいた。
やがて、彼は離れた。
扉が開き、閉まる。
足音は廊下の奥へ消えていった。
美琴はすぐには目を開けなかった。
完全に気配がなくなるまで待ち、身体をゆっくり起こす。肺に溜めていた息を吐いた瞬間、全身が細かく震え始めた。
手巾を開く。
白い薬は水分を吸い、崩れて黄色がかった染みをつくっていた。
美琴はそれを化粧台の引き出しの奥へ隠した。
眠れないまま、夜が明けた。
空が白み始める頃、美琴はいつものように寝台を抜けた。
午前五時。
台所の窓から差し込む光は鈍く、昨夜の雨を含んだ庭から土と葉の匂いが漂っている。
美琴は湯を沸かし、朝食の支度を始めた。
包丁を持つ手は動いているのに、頭の中では昨夜の言葉が何度も繰り返されていた。
拒める状態にしておかなければいい。
眠っている間に何をされるのか。
判断力がない状態にされた後、どの書類へ署名したことにされるのか。
鍋の湯が沸騰し、蓋が大きく鳴った。
美琴は火を弱める。
冷蔵庫の奥から小さな保存袋を取り出し、崩れた錠剤を包んだ手巾ごと入れた。台所のごみ箱には捨てられない。喜和子が中身を確認することがある。
庭へ出る。
朝露に濡れた飛び石を渡り、裏門近くの古い焼却用容器へ向かった。現在は使われていないが、底には枯れ葉が溜まっている。
美琴は袋から手巾を出し、薬の染みた部分だけを小さく切り取った。
携帯用の着火具で火をつける。
布の端が黒く縮み、薬とともに灰へ変わっていく。焦げた化学繊維の匂いが立ち上り、美琴は顔を背けた。
完全に燃えたことを確かめ、灰を土へ埋める。
手元に残した保存袋へは、今朝化粧台に置かれていた一錠を入れた。
成分を調べることができるかもしれない。
誰に頼めばよいのかは分からなかった。それでも、捨ててしまうよりはよかった。
食堂では、何事もなかったように朝食が始まった。
征士郎は新聞を広げ、華帆は林檎を薄く切ったものをゆっくり口へ運んでいる。喜和子は味噌汁を一口飲み、今日は何も言わなかった。
昨夜の書類は食卓から消えていた。
「十時に出る」
征士郎が新聞から顔を上げずに言った。
「華帆を病院へ連れていく」
「私も同行します」
美琴はすぐに答えた。
紙面がわずかに揺れた。
「今日は華帆の検査だけだ」
「移植について、担当の先生へ伺いたいことがあります」
「君の面談は別の日に設定する」
「昨日は、明日の朝までに返事が必要だとおっしゃいました」
征士郎は新聞を畳んだ。
「病院側と調整した。数日の猶予はもらえる」
「昨夜とはお話が違います」
喜和子が箸を置いた。
「美琴。朝から征士郎を問い詰めるのはおやめなさい」
「問い詰めているわけではありません。ただ、私の手術について――」
「君は家で休んでいなさい」
征士郎の声が、美琴の言葉を覆った。
穏やかだった。
しかし、反論を受け入れる余地のない響きだった。
「昨夜はほとんど眠れていないだろう」
美琴の背中に冷たい汗が滲んだ。
「どうして、そう思うのですか」
「顔色を見れば分かる」
征士郎は珈琲を飲んだ。
「薬を飲んでも眠れなかったのなら、体調が悪いのかもしれない。病院へ行く前に、まず休むべきだ」
薬を飲んだと思っている。
少なくとも、今は。
美琴はそれ以上言わなかった。
午前十時になると、征士郎と華帆は屋敷を出た。
玄関先で、征士郎は華帆の腰へ手を添えていた。病人を支えるにしては、あまりにも自然な動きだった。
華帆もその腕を拒まない。
車の後部座席へ乗り込む時、彼女は征士郎の胸元へ顔を寄せ、何かを囁いた。
征士郎が笑った。
その笑みを、美琴は遠い昔に見たことがあった。
新婚旅行の朝、寝癖のついた美琴を見て笑った時と、よく似ていた。
車が門を出る。
美琴は扉を閉め、玄関の鍵をかけた。
喜和子は知人との昼食会へ出かけている。家政婦には午前中の休みを取らせてあった。
屋敷にいるのは、美琴だけだった。
静寂が広がる。
時計の音が、普段より大きく聞こえた。
美琴は階段を上り、夫婦の寝室へ向かった。
昨夜までは、自分の部屋だと思っていた場所だった。
扉を閉め、まず征士郎の衣装部屋を調べた。
背広は色ごとに並び、引き出しの中のシャツも乱れなく畳まれている。征士郎は几帳面だった。持ち物の位置が少しでも変われば気づく。
美琴は薄い手袋をはめた。
机の引き出し。
衣装棚の奥。
革鞄を保管する棚。
目立ったものはない。
次に洗面台へ向かう。
二人分の歯ブラシと、征士郎の髭剃り。美琴の化粧水は、鏡の右側にまとめてある。
その奥に、見覚えのない小さな硝子瓶があった。
蓋を開けると、甘い花の香りがした。
華帆が愛用している香水だった。
彼女が廊下を通った後にいつも残る、白い花と蜂蜜を混ぜたような匂い。
美琴は瓶を元の位置へ戻した。
洗面台の下にある収納棚を開く。
奥から、淡い桃色の口紅が転がり出た。
美琴は使わない色だった。
蓋を外すと、先端が斜めに削れ、細かな金色の粉が混じっている。華帆が外出する時によくつけているものと同じだった。
その横には、若い女性向けの下地化粧品。華帆の部屋に置かれているはずの乳液。細い髪を留める真珠飾りのピン。
どれも、一度置き忘れただけとは思えない量だった。
美琴は洗面台へ手をついた。
鏡には、青ざめた自分の顔が映っている。
視線を下げると、排水管の脇に白い紙袋が挟まっていた。
手を伸ばす。
大学病院ではなく、市内にある産婦人科の名が印刷されていた。
中には診察券が入っている。
榊原華帆。
生年月日も間違いない。
受診日は三週間前だった。
肝臓の病気を抱える華帆が産婦人科へ行く理由を、美琴はすぐには理解できなかった。
婦人科系の不調かもしれない。
若い女性なら、定期検診を受けることもある。
そう考えようとした時、紙袋の底から小さな領収書が落ちた。
超音波検査。
妊娠初期管理。
文字が目に入った瞬間、指先が冷たくなった。
美琴は収納棚をさらに探った。
奥の板へ指をかけると、わずかに浮いている。引き出すと、配管との隙間へ黒い布袋が押し込まれていた。
中には細長い器具が二本入っていた。
妊娠検査薬。
どちらにも、はっきりと二本の線が出ている。
陽性。
美琴はその場へ膝をついた。
冷たい床の感触が、薄い布越しに伝わる。
華帆が妊娠している。
誰の子どもなのか。
なぜ、この寝室に検査薬が隠されているのか。
呼吸をしようとすると、胸の奥に何かが詰まった。
美琴は洗面台の縁を掴み、立ち上がった。視界が揺れる。鏡の中の自分が、知らない女のように見えた。
寝室へ戻り、今度は征士郎の寝台側にある小卓を調べる。
引き出しの奥に、小さな花形のイヤリングが片方だけ入っていた。
淡い紫色の石を五枚の花弁に見立てたもの。
華帆が半年ほど前から頻繁につけている。
美琴も何度か褒めたことがあった。
華帆は、片方を病院でなくしたと言っていた。
なくしたのではなかった。
この寝室に置いていったのだ。
美琴はイヤリングを掌へ載せた。
鋭い金具が皮膚へ食い込む。
夫婦の寝室に、華帆の香水がある。
口紅がある。
化粧品がある。
イヤリングがある。
産婦人科の診察券がある。
陽性反応の出た妊娠検査薬がある。
偶然を重ねるには、多すぎた。
玄関の扉が閉まる音がした。
美琴の肩が跳ねた。
壁の時計を見る。
十一時十五分。
病院へ出かけてから、まだ一時間ほどしか経っていない。
足音が階段を上ってくる。
軽い足取り。
華帆だった。
美琴は検査薬と診察券を黒い袋へ戻した。イヤリングだけは、反射的に掌へ握り込む。
寝室の扉が開いた。
華帆が立っていた。
美琴を見つけても、驚いた様子はない。
「あれ。お姉ちゃん、ここにいたんだ」
声は明るかった。
「病院は?」
「忘れ物をしたの。お義兄さんは、先に病院へ行ったよ」
華帆は自然な足取りで部屋へ入ってきた。
他人の寝室へ足を踏み入れる遠慮がない。
美琴の横を通り過ぎ、化粧台の前へ座る。
引き出しを開け、征士郎が毎朝使う黒檀の櫛を取り出した。
そして鏡を見ながら、自分の髪を梳き始めた。
ゆっくりと、慣れた手つきで。
櫛の位置を知っていた。
椅子の高さも、鏡の角度も、引き出しの中身も。
華帆にとって、ここはすでに他人の夫婦の寝室ではなかった。
「その櫛は、征士郎さんのものよ」
美琴が言うと、華帆は鏡越しに笑った。
「知ってる」
美琴の掌の中で、イヤリングの金具がさらに深く刺さった。
「どうして、ここにあなたの化粧品があるの」
華帆の手が止まった。
鏡の中で、二人の視線が重なる。
「産婦人科へ行ったのね」
華帆は櫛を化粧台へ置いた。
かすかな音がした。
「あなた、妊娠しているの?」
沈黙が落ちた。
華帆はしばらく鏡の中の姉を見つめていた。
やがて、目尻を下げた。
「何のこと?」
弱々しく首を傾げる。
いつもの顔だった。
病気で、幼くて、誰かに守られなければ生きられない妹の顔。
美琴は洗面所から黒い袋を持ってきた。
卓上へ置く。
中から妊娠検査薬が覗いた。
華帆の表情から、怯えが消えた。
涙も、震えもなかった。
代わりに、薄い笑みが唇へ浮かんだ。
「見つけたんだ」
声の高さまで変わっていた。
幼い響きは残っている。
けれど、そこには美琴がこれまで知らなかった冷たさがあった。
「誰の子どもなの」
美琴は問いかけた。
声が震えた。
「華帆。父親は誰なの」
華帆は椅子から立ち上がった。
一歩ずつ、美琴へ近づく。
花の香水が濃くなる。
美琴は後ろへ退かなかった。
華帆は姉のすぐ前で足を止めた。
掌に握られたイヤリングへ目を落とし、楽しそうに笑った。
「それも見つけたの?」
「答えて」
「そんなに知りたい?」
華帆はさらに顔を寄せた。
淡い栗色の髪が、美琴の頬へ触れる。
温かな息が耳へかかった。
そして、秘密を分け与えるような声で囁いた。
「お姉ちゃんが、二十二年間一緒に寝てきた人」
榊原医療開発の定時株主総会まで、残り十二日だった。例年なら、美琴はこの時期になると征士郎が自宅へ持ち帰る総会資料の数字を見直し、前年との増減を確認し、取引先から届く祝い花の扱いまで気にかけていた。それでも会議場に自分の席が用意されたことは一度もなく、当日は控室と廊下を往復しながら、必要な資料を役員へ渡すだけだった。今年、美琴の前に置かれているのは、配布用資料ではなく榊原医療開発の最新の株主名簿だった。久世の事務所の長机に広げられた名簿を追っていた美琴は、途中で指を止めた。そこには見慣れたはずなのに、いまだ自分の会社だという実感を持てない名前があった。〈ミコト・アセットマネジメント株式会社〉。保有比率は経営権を左右するほどではないが、株主として総会へ出席し、保有株式に応じて議決権を行使できるだけの株数が記載されていた。「いつ取得した株ですか」久世は取得履歴を開き、設立直後の三年前から複数回に分けて買い増していると説明した。市場を経由した取得だけではなく、榊原家と関係の深い株主から譲渡された分もあり、資金の一部には美琴名義の旧口座から移された金が使われた疑いがある。会社の存在を知らなかった頃、美琴の名前で作られた法人は夫の会社の株まで保有し、書類上の美琴は知らないうちに株主へなっていた。「しかも、株主名簿上の名義人は法人です。登記上、その法人を代表できる人物は現在も美琴さんになっています」久世の言葉に、美琴は名簿の社名と自分の名前を交互に見た。ミコト・アセットでは、融資も保証も投資も自分が決めたことにされてきた。その肩書を欲しいと思ったことは一度もないが、征士郎が自分の名義を利用するために作った代表権なら、その権利だけを都合よく封じられることにも納得できなかった。すでに征士郎側からは、株主総会への出席を認めないという趣旨の通知が届いていた。ミコト・アセットの代表取締役登記には重大な争いがあり、会社経営へ実際に関与してこなかった美琴が突然株主権を行使すれば混乱を招くため、総会当日に受付へ現れても資格を認めない可能性があると書かれている。法廷では美琴を関連会社の実質的経営者として扱い、債務まで負わせようとしていた征士郎側が、株主として権利を使おうとした瞬間には「経営へ関与していない」と主張している。その文章を最後まで読んだ美琴は、怒りよりも先に、また同じやり方
美琴が最初に作ったのは、報酬額の表ではなかった。久世の事務所の長机いっぱいに、自分が実際にしてきた仕事を年代順へ並べることから始めた。資金繰り、銀行との返済調整、取引先への支払い交渉、社員給与の計算補助、役員会資料の作成、取引先の冠婚葬祭への出席。これまで「妻だからして当然」と思ってきたことを一つずつ仕事として書き出すたび、二十二年間の輪郭が別の形で見えてきた。「家事と会社業務は分けましょう」久世は、美琴が書いた一覧の中央へ線を引いた。榊原家の食事を作ることや喜和子の通院へ付き添ったことまで会社への請求へ含めるつもりはない。だが、取引先の葬儀へ征士郎の代理として参列し、会社名義の香典額を判断したことや、銀行担当者との面談資料を作成したことは、家庭内の手伝いではないと彼は明確に区別した。美琴は古い手帳を開き、予定欄を一つずつ確認した。月末の欄には決まって銀行名と数字が書き込まれている。午前十時、中央銀行支店。午後二時、東都医療機器。午後四時、社員給与確認。夜には榊原邸へ戻り、喜和子の夕食を作ったあと、征士郎が持ち帰った資料を見ながら翌月の支払い順位を決めていた。あの頃の自分には、どこからどこまでが仕事なのか考える余裕すらなかった。「メールも残っています」美琴が出した古い外付け記録媒体には、会社の共有アドレスから転送された連絡が大量に残っていた。征士郎の秘書から送られてきた請求一覧、経理担当者からの確認依頼、取引先から直接届いた支払い相談。宛名には〈榊原専務奥様〉と書かれているものも多いが、内容は明らかに会社の資金判断を求めるものだった。久世はその一通を開き、画面へ表示した。十四年前、資金不足が深刻だった月のメールだった。経理課長が、社員給与と医療機器会社への支払いのどちらを優先すべきか美琴へ尋ねている。美琴は給与を予定通り支給し、医療機器会社へ自分から三日の延期を頼むと返信していた。その三日後、取引先から〈奥様のお約束どおり入金を確認しました〉という返事が届いている。「専務ではなく、私へ聞いている」「このメールだけではありません」久世が検索条件を変えると、似た連絡が何十件も出た。融資の返済日を一週間動かせないか、仕入先の一社へ先に払うべきか、給与計算に不足がないか。正式な役職も社内メールアドレスもない美琴へ、会社の人間が直接判断を求めている。しかも
離婚訴訟の期日は、これまでより傍聴人の数が多かった。美琴が成年後見を必要としないと判断されて以降、榊原家と九条家の対立は金融機関や取引先にも知られるようになり、法廷の後方には報道関係者らしい姿も混じっている。美琴は久世の隣へ座り、机の上に置かれた書面を一枚ずつ確かめた。三十八件の保証契約、ミコト・アセットの議事録、銀行の入退館記録、筆跡鑑定書。向かい側には征士郎がいた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせ、表情には焦りを見せていない。裁判所の外では妻を心配する夫として振る舞い、法廷では会社を守る経営者として座る。その切り替えを二十二年間見てきた美琴には、口元のわずかな硬さだけが、今日の主張に相当な準備をしてきたことを教えていた。征士郎側の代理人は、開廷後まもなく提出書面の説明へ入った。美琴は榊原家から一方的に財産を奪われた者ではなく、長年にわたり榊原医療開発と関連会社の資金調達へ関与し、個人保証、関連会社の代表、病院法人への投資判断を通じて事業拡大へ参加してきたという。ミコト・アセットでは代表取締役として貸付や不動産取得を承認し、複数の金融機関はその経営関与を前提に融資を実行した。したがって、婚姻期間中に形成された利益だけを美琴が受け取り、事業債務だけを征士郎側へ残すことは許されないという論理だった。「相手方は、自身に都合のよい資産のみを固有財産であると主張し、事業上の債務についてはすべて偽造であるとして負担を免れようとしています」代理人の声は整っていた。美琴は黙って聞いた。次に示されたのは桐生承継信託第一号だった。征士郎側は、その受益権についても、美琴が長年榊原家の事業へ自ら信用を供与してきた以上、債務整理と切り離して扱うべきではないと主張した。さらに、美琴が離婚後に桐生姓へ戻る意向を周囲へ示していることまで、債務との関係を断ち切ろうとする姿勢の表れであるかのように語った。美琴はそこで初めて征士郎を見た。二十二年間、会社の契約や役員会について質問すれば「君は家庭を見ていればいい」と言い、帳簿の数字へ意見を出せば「正式な役員ではない」と退けた男だった。その同じ人間が、今は美琴を事業の拡大へ積極的に関わった共同経営者として扱っている。久世は反論のために立ち上がった。まず、ミコト・アセットで美琴が出席したとされる株主総会と取締役会について、会議室そのものが存在
久世が机の上へ並べた資料は、契約の種類ごとではなく、「榊原美琴」という名前がどのように使われたかで分けられていた。銀行関係、保証契約、ミコト・アセット、医療記録、保険、委任状。昨日まで別々の問題として追っていた書類が、六つの束へ組み替えられている。美琴は椅子へ座る前にそれらを眺め、どの束にも自分の署名と実印の痕跡があることを確かめた。自分の人生が紙へ解体され、用途ごとに分類されているようだった。「今まで、偽造された書類を一件ずつ追ってきました」久世は壁面モニターへ資料を映した。最初に示されたのは、美琴の実際の経歴だった。十八歳で征士郎と結婚し、榊原家へ入り、正式な役職も給与もないまま経理、資金繰り、取引先との調整を担ったこと。家では喜和子の世話をし、会社では表に名前が出ない仕事を引き受け、必要な時だけ「専務夫人」として頭を下げてきたことが年代順に記されている。「こちらが、現実のあなたです」美琴は画面を見つめた。そこにある事実はどれも知っている。それでも、第三者の手で簡潔に並べられると、二十二年間の自分が驚くほど権限を持たない人間だったことが分かった。会社の資金が尽きそうな時には数字を計算したのに、融資を決める権限はない。取引先へ支払い延期を頼んだのに、役員会へ正式に呼ばれることはない。毎月の帳簿を把握していても、報酬は一度も支払われなかった。久世は画面を切り替えた。今度は、まるで別人の履歴だった。巨額の個人保証を繰り返し、金融機関から信用を得る資産家。関連会社の代表取締役として病院法人への投資や不動産取得を決裁し、榊原医療開発への融資を承認する経営者。生命保険へ自ら加入し、受取人と保険金額を調整する資産管理者。さらに夫へ口座、株式、議決権、財産管理を任せる委任状へ署名し続けた妻として記録されている。「そして、直近になると別の要素が加わります」久世が一枚の医療関係資料を拡大した。そこには、強い不安、判断の揺らぎ、配偶者による補助が必要という趣旨の記述が並んでいた。美琴が会ったことのない医師との面談記録や、薬の影響が疑われる時期の書類も含まれている。成年後見を求めた征士郎側の主張と重ねれば、書類上の美琴は最近になって急速に、精神疾患を抱え、自分では重要な判断をできない患者へ変化していた。「矛盾していませんか」美琴は画面を見たまま尋ねた。「何十億円も
ミコト・アセットマネジメントの議事録は、見た目だけなら申し分のない会社の記録だった。製本された冊子には年度ごとの株主総会と取締役会が整然と並び、開催日時、出席者、審議事項、決議内容まで欠けることなく記されている。美琴は久世の事務所の長机に座り、その一冊目を開いたまま、しばらく最初のページから視線を動かせなかった。代表取締役として記載されているのは自分の名前だった。議長として開会を宣言し、貸付案件を説明し、出席者へ意見を求め、最後にはすべての議案を承認したことになっている。「これ、全部で何回あるんですか」久世は手元の一覧へ目を落とした。「確認できた範囲で、株主総会が九回、取締役会が三十七回です。書面決議扱いのものを含めれば、さらに増えます」と答えた。美琴は思わずページの角を押さえる指へ力を込めた。三年前に設立された会社であるにもかかわらず、月によっては二度も取締役会が開かれている。自分は会社の存在さえ知らなかったのに、紙の上の榊原美琴は、現実の美琴よりはるかに頻繁に経営判断をしていた。議事録の内容は軽いものではなかった。榊原医療開発への一億円単位の貸付、病院法人への出資、医療機器会社の債務保証、地方都市の土地購入、関連会社株式の取得。中には、前日に資金不足が判明した榊原医療開発へ緊急融資を行う議案もあり、議事録上では美琴自身が「取引関係維持のため必要」と説明したことになっている。別の会議では、病院法人への投資について「将来の医療事業拡大に資する」と発言したと記録されていた。美琴はその文章を読み、奇妙な息苦しさを覚えた。自分なら使いそうな言い回しではない。けれど外部の人間には、そんなことは分からない。そこに署名と実印があり、議事録として整えられていれば、代表取締役本人が話した言葉として扱われる。「この議事録は、会社の中に置かれていただけではないんですね」「ええ」久世は別のファイルを開いた。銀行、リース会社、病院法人から取り寄せた審査資料の中に、ミコト・アセットの議事録写しが添付されている。融資審査では、美琴が取締役会を主導し、自ら投資案件を説明した人物として扱われていた。金融機関側のメモには〈代表者の事業理解は深い〉〈榊原医療開発との関係も本人が説明〉という記載まである。「会ってもいないのに、私の事業理解が深いことになっているんですか」「担当者が美琴
筆跡鑑定人が持参した資料は、前に見たものより薄かった。それなのに、美琴は表紙へ触れるまでに少し時間がかかった。九条家の応接室には午前の光が斜めに差し込み、長机の上には華帆が過去三年間に残した手書き資料の複写が並んでいる。白い花の誕生日カード、買い物を頼まれた時の走り書き、病院へ提出した申請書、美琴宛ての短い手紙。どれも当時は疑う理由すらなかった物ばかりで、今は一文字ずつ線の癖を見られるために透明な袋へ収められていた。「結論から申し上げれば、同一筆者と断定する段階ではありません」鑑定人は最初にそう告げた。美琴は胸の奥で固くなっていたものが僅かに緩むのを感じたが、安心したわけではなかった。鑑定人はすぐに、直近三年間の移植関係書類にある偽造署名と華帆の自然筆跡には、複数の共通特徴が見つかったと続けた。文字の形そのものではなく、筆圧の入れ方、曲線から払いへ移る時の小さな止まり、縦線を書き始める際に紙へ強くペン先を置く癖が似ているという。透明なシートを重ねると、全く違う言葉の中にも同じ動きが浮かび上がった。華帆が書いた〈お姉ちゃんへ〉の「姉」の縦線と、移植同意書にある〈榊原美琴〉の「琴」の縦画には、始点だけ強く紙を押し、その直後に力を抜く癖がある。さらに、長い横線の終わりを僅かに上向きへ返す動きも共通していた。鑑定人はあくまで可能性の話として説明し、類似だけで本人と決めつけることはできないと何度も念を押した。「比較資料を増やせば、もう少し精度は上がりますか」美琴が尋ねると、鑑定人は頷いた。「年代の分かるものが多いほど助かります。特に、急いで書いたものと丁寧に書いたものの両方があるといいでしょう」と答える。その声は淡々としていたが、美琴にはありがたかった。ここで華帆が書いたと断定されれば、怒りの向け先は簡単になる。けれど簡単な答えほど、今の美琴は警戒するようになっていた。久世が病院関係の申請書を一枚取り上げた。「華帆さん本人が提出した入院費助成の申請です。日付も本人提出も確認できています」と言い、別の買い物メモと並べた。美琴はその二枚を見ながら、華帆が榊原邸へ来た最初の頃を思い出した。文字を書く姿を何度も見ていたはずなのに、どんな持ち方をしていたかまでは覚えていない。姉を慕うように隣へ座り、「お姉ちゃんの字って綺麗」と家計簿を覗き込んでいたことだけが、妙にはっきり